鏡の向こうの
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長い、ひどく長い眠りの後――夜の病院にて沖本は目を覚ました。
目覚めた時に感じたものは『痛み』だった。
じくじくと両手が痛む。両手は包帯に覆われ固められて動かせないようにされていた。
「………………」
暗い病室、照明の点いていない天井を眺めながら、何があったのかを思い出すと同時に――身体の痛みだけでなく心の痛みが沸き起こった。
また、奈々美は死んだのだ。
失敗した。取り戻せなかった。
「……うっ……」
死んだ心に、未だに痛みが疼き続ける。
悲しみも涙も枯れ果てたと思ったのに、死にそうなほど心を引き裂かれて、血を流し傷口が膿み続けている。
それでもなお、身体は生き続けている。未だに生きているがゆえに苦しみ続けている。
「……奈々美……」
守りきれなかった。
異常な儀式に縋ってでも、何よりも取り戻したいと願ったものを、奈々美を沖本は守れなかったのだ。
奈々美のどうじさま人形を刺し壊した武巳に対する恨みはない。
もう、どうでもいいと思った。
また生きながら心が死ぬだけだった。
いっそ――死ぬのもいい。立ち直るには、もう力が残っていなかった。
何もないように取り繕って生きるのもひどく消耗した。
「…………」
時刻は真夜中らしい。
ナースコールを押そうとしたが手が包帯で塞がっているのでやめた。
こつん――……かっ……
病室のドアに嵌った磨りガラスに人影らしきものが映り、部屋の前を過ぎった。
こつん――……きゅっ……
廊下を歩くその足音は遠ざかる。
「…………」
廊下を人が通っただけだと思ったが、それが記憶の中にある足音と結びついたため、はっとなり沖本は瞬時に身体を起こした。
それは記憶の中にある、摺り癖のある奈々美の歩き方と同じだった。
「…………!」
ベッドから降りる。ぺたんと裸の足が病室のリノリウムの床を踏む。
部屋を探せば靴なりスリッパなりあったのかもしれないが、履物を探す暇はなかった。すぐ追いかけないと見失ってしまうと思ったのだ。
「――っ……!」
病室のドアを開けるためにとっさに引き戸のドアハンドルに手をやるが、手にドアハンドルが当たった瞬間、激痛が走った。
「あっ……! ぐっ……!」
涙が出そうなほどの痛みに悶え、呻く。
「……う……っ……!」
ろくに動かせない包帯で固められた手を庇い、無事な肘をドアハンドルに押し当て身体を使ってスライド式のドアを押し開く。
なんとか身体を押し込める程度にドアが開くとその隙間に身体を潜り込ませる。
「……っ……!」
廊下に出て、人影が去っていったほうの廊下の奥を見る。
明るさの乏しい常夜灯だけが点いている暗い廊下の奥、窓ガラスにふっと何かの影らしきものが映ったが、それが見えたのは一瞬でそれはすぐに廊下の角を曲がって消えた。
「…………!」
窓ガラスで出来た暗い闇の鏡に一瞬だけ映った、見覚えのある奈々美の服に、今度こそ沖本はそれが何かを確信した。
「まっ……」
走ってそれを追いかける。
廊下を曲がると階段があり、踊り場にある窓ガラスに人影が一瞬だけ映って、階段を降りる足音がした。
「…………!」
慌てて階段を降りる。
見えた次の踊り場の窓ガラスに映る人影――異様に向こうの移動が早い。
「…………!」
そうやって、それを追いかけるうちに、とうとう病院の外に出た。
深夜とはいえ受付やナースステーションに人がいなくてはおかしいのだが、誰もおらず、恐ろしいほどに人と会わなかった。
まるで沖本以外の人間は全て死に絶えたような静寂さだった。
あるいは――似て異なる世界に迷い込んでしまったように、同じでありながらも違和感のある夜の街の中を沖本は駆けた。
時折、道路のカーブミラーや停められた車のガラスなど反射するものに映るその人影は、どこかへと誘い込むように移動し続けた。
沖本はそれを見て、あるいは足音を聞いて夜の街を走り、追い続ける。
「はっ……あっ……はっ……はっ……」
走り続けた裸足の足裏がアスファルトに削られ痛みを上げる。冷え切った冬の夜なので余計に痛みが増した。
まるで地獄の針山を歩く罪人のような痛みだった。
だが奈々美が死んで以来、現実感が消え失せて心の痛みだけを抱えていた沖本にとって、身体の痛みはさほど問題ではなかった。地獄というならば奈々美のいないこの世界のほうが地獄であった。
――奈々美……! 奈々美……!
「は……はあ……」
そして辿り着いた先――雑木林の中。
そこには池があった。
農業用の溜池か窪地にある池。
それは人が入らないようにフェンスに囲まれていたが、戸に当たる部分が開いていた。
沖本を中へと導くように。
「…………」
導かれた沖本は池の前に立つ。
池は波のない鏡のような静かな水面だった。暗い水面が夜空の月を映していた。
その暗い水の中に動くものがあった。
まるで水中に世界があるかのように人影が映っていた。
「八純先輩……? 水内ちゃん……?」
そこには八純がいた。範子がいた。
そして、奈々美がいた。
「…………」
ようやく気が付いた。
死んでいなくなってしまった皆は『向こう側』にいるのだ。
――ああ、そうか……
簡単なことだった。何故今まで気づかなかったのだろう。
こちら側に奈々美を取り戻すのではなく、自分が向こうへ行けばよかったのだ。
満面の笑みを浮かべて沖本は池の淵に屈み込み、水面に手を入れた。
………………
………………………………
未明、羽間の総合病院から抜け出した患者が溜池で発見された。
患者の身元が判明するまでには、少し遅れがあった。
そこには腹部で切断され消失したように人間の下半身だけが残されていたからだ。
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……………………………………
少しして羽間に噂が流れた。
とある女の子がトラックに轢き逃げされる事故に遭って、身体の上下が切断された状態で見つかった。
だがいくら探しても切断された下半身は見つからなかった。
失くなった下半身はこの世ならざるものに持っていかれたそうだ。
女の子と付き合っていた男の子はたいそう嘆き悲しんだ。
そこで女の子を連れ去ったこの世ならざるものに自分も連れて行くように頼んだ。
男の子は女の子の身体と同じように自分の身体を半分に切断した。
だから上半身が男の子、下半身が女の子の幽霊が出現したら、それはあの世で一緒になった恋人達の幽霊らしい。
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