Der Doppelgänger
1
昼下がり。
羽間の駅前にある喫茶店の中――テーブルの上に置いた携帯の通知音が鳴ったので稜子は画面を操作して、そこに表示されたメッセージを見る。
「もうすぐ駅に着くって」
「うん」
向かいの席に座っていた武巳がカップに入ったコーヒーの残りをぐいと呷って飲み干した。伝票を持って席を立つ。
座席に置いていた花束を稜子は持って立ち上がる。
陽気がありながらもまだ風が吹くと肌寒さを覚える春の羽間市――
「久しぶり」
髪型や服装は変わっていたが、亜紀がそこにいた。
✽
掛けてもずっと繋がらなかった亜紀の携帯に連絡がついたのが半月ほど前のことだった。
話をした。別れてからの数年間、何をしていたか。今どうしているのか。
そして今まで電話を掛けても取らなかった理由を聞いた。
「せっかく離れたのに、あんたと連絡取るとそっちに引っ張られるんじゃないかと思った」
「…………」
亜紀は新しい生活に馴染むために今まで連絡を断っていたのだ。
そうした頑なさと不器用な在り方を稜子は歯痒く思いながらも、亜紀なりの決意だったということはわかったのでそこに水を注すのは躊躇われた。
本当は半ば諦めていたのだ。
だからこそ、今回はどうして取ってくれたのだろうと思った。
「そろそろ、いいかなって。二十歳になって、きりが良いし。あんたにいつまでもこうされるのも悪いしね」
「そっかあ……」
そうして、また話をして――会おうということになり、今に至る。
「じゃあ行こうか」
稜子達は羽間に墓参りに来たのだった。
✽
稜子も武巳も聖創学園大学に進学しなかったため羽間に来るのは高校を卒業して以来だった。
あの事件の後、学校が移転して最寄りのバスの停留所がなくなったため、元聖学へと行くには一番近い住宅街にある停留所から歩くことになった。
見覚えのある洋風の建物の立つ羽間の街並みを稜子達は歩く。
学校に近づくにつれて道路の脇の街路樹に桜の樹が増えていく。白い建物や切妻屋根、砂岩レンガの西洋風の街並みながらも、そうした部分は日本の街だなという感想を抱く。
「…………」
あの頃、毎日登校するために登っていた坂の手前には、立ち入り禁止の看板とフェンスが張られていた。
「入れそうだ」と、武巳がフェンスの端を指すがフェンスの隙間から見える道路は上から流れてきたのだろう土砂で埋まっている。
「入るの?」
「まあ、ここまで来たし」
「うええ」
こうなると思って歩きやすい格好をしてきたが、稜子は露骨に萎びた声を出してしまう。
大学では体育の授業がないため運動の苦手な稜子は体力の低下が著しかった。道を歩いてきた時点で既にへばっている。
「わっ」
足元が悪く、土に足を取られてよろけた稜子の腕を武巳が支える。
「ありがとー」
照れながら礼をいう。持つよ、と稜子の抱えていた花束を取る武巳。
「お熱いことで」
見ていた亜紀にからかわれる。
「もーそういうのじゃないってばあ」
言いながらも、こうして再び亜紀と軽口を叩けることが嬉しくて稜子は笑った。
2
聖学の校門前。
建物はまだ完全には取り壊されていなかったが、破壊の痕跡は大きく、壁が崩れて基礎の鉄筋が見えていた。
昇降口のあった一号棟は上まで土砂に埋もれて、白かった建物の壁も土で汚れていた。
「…………」
テレビの報道では何度も見たが、実際に現場を見るのは初めてだった。報道されていた空撮映像もCG合成されたものなのではないかと機関の工作を疑っていたが、実際に間近で見ると天変地異が起きていたような災害の跡そのものだった。少なくともそう見える。
「…………」
敷地内では辛うじて倒れることを免れていた桜の樹がぽつりと花を咲かせていたが、それは死に体の樹が花を咲かせているようで頼りなく寂しげだった。
過去の学校を知るほどに、ここは過去の眠る残骸の墓場だというそんな印象を受ける。倒れることなく残った校舎の壁も窓ガラスが割れていて修繕もされぬまま放置された佇まいは空虚な棺めいていた。
「……何もないね」
「うん」
亜紀の言葉に頷く稜子。
「…………」
土に埋もれた校門の前に花束を置いた。
――死体は見つからなかったらしい。
理由は推測できるし、そのことにも納得している。
異界に消えたのなら死体が見つからないだろう、と。
そして異常死した死体ならば機関がそれを返すわけにはいかないだろう、とも。
それでも――何も知らない大衆からすればこれも新たな都市伝説の切っ掛けになるのかもしれないなと思いながら、亜紀は見る影もなく荒れ果てた学校の跡を見る。
「……」
目を閉じて黙祷する二人の横顔を見る。
各々の想うものは同じでも、そこに抱く仔細な心境はまた異なっているだろう。
「………………」
青春時代を懐かしめるのはそれを過ぎたものだけができることで、青春時代の最中は痛みばかりだと何かの歌であったか――
あの夜のことは誰にも言ってない。
だからあの夜のことは亜紀が覚えていることだけが――亜紀の記憶のみが全てだった。
世界が終わってしまうというような置いていかれたという感覚、〝魔女〟への怒りと憎悪、恋をした相手への諦めと決別、獣の末路の目撃と友人の変化の決定的な目撃――
亜紀はその全てに口を閉ざした。
それは、あの夜の己の瑕疵を明かすことを躊躇う亜紀の弱さもあったが――
亜紀が口を閉ざせば、空目達は〝魔女〟から皆を守ろうとしていたのだと、正しいことをしようとしていたのだと、武巳と稜子の二人にはそう思われるだろうから――と。
「………………」
沈黙することでしか守れないものもあると思ったのだ。
それも結局は、そうであって欲しいという亜紀の感傷に過ぎず、二人ともそんなことは望んでいなかったのかもしれない。
それでも亜紀には人でいて欲しかったのだと望まれていたように思えたから――亜紀はそう応える。
終わって見れば、幼く拙かったと思う。
それでも、あの時に終わらせていなければ後悔していただろう。
亜紀は亜紀にしかなれない。ただの人として人の世界で生きることしかできない。
それを認めて、諦めることで、少しだけ大人になれた。
そんな迷いながらの決意を肯定して貰えた。それでよかったと思っている。
「…………」
視界の端に影が過ぎった気がした。
目を向けると、そこには黒い影が佇んでいた。
「………………………………」
過去の自分が焦がれていた黒い影を見る。
その表情はぼやけていて見えない。
「…………」
そっと亜紀は微笑むと心の中で話しかける。
――大丈夫だよ、と。
大学では少ないながらも友人と呼べるような存在がまたできた。
好きな本の話をしたり、あの頃は下らないと思っていたことにも目を向けて、普通の何でもない会話をしながら、人に紛れて暮らしている。
アルバイトをして初めての給料で両親に贈り物をした。
今は就職のための資格の勉強をしている。
時に不安に潰されそうになりながらも、私は自分なりに人の世界でやっているよ、と。
だから、大丈夫だよ、と――
「…………」
言葉にしなかった想いは過去のものとして、風に消えた。
同時に影も、それを見ていた過去の自分の幻影も消えた。
「………………」
「何かあった?」と言いたげに亜紀を見ていた武巳と稜子に肩を竦める。
「もう行こ」
そうして坂を降りるために歩き出した。
歩みを進める。山を下りて、元の世界へ、人の世界へ。
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