波間に揺れる

 遠くから波の音が聞こえる。

「…………」
 そこは海部野の家の墓だった。
 千恵の家族――姉の志弦が眠る海部野家代々の墓だった。
 墓の管理をしていた寺の人間はもういない。後任の住職が決まったという話も聞かない。
 放っておけば荒れてしまう墓を千恵は一真と掃除した。
 そうしてライターで線香に火を点けた後、
「俺、向こうのほうにいるから。ゆっくりして」
「うん……ありがと」
 家の手伝いやロッジの事で忙しいだろうに、こうして気を使ってくれる一真に悪いなと思いながら千恵は墓に向き直る。線香の上げる煙が空に昇っていくのを見る。
 季節は夏で包帯に覆われた身体は蒸しているが、周囲を林に囲まれた立地のせいか町の中にいるよりは幾分か涼しい。時折風が吹いて、梢を揺らす。

 この墓には雅孝も眠っていた。

 厳密には雅孝が変じて残った残骸、それを燃やした灰が墓の周囲に撒かれていた。

「…………」

 大切な人間がいなくなるのを見送るのが人魚の宿命ならば、今の千恵も同じだった。
 遺された人魚――千恵。
 しかしその心境は複雑だった。

 ――雅孝が皆を巻き込んで破滅した。

 ずっと気にかけてくれていて、騎士団の協力までしていた三木目先生までも手にかけて。
 先生はあんな風になっていい人じゃなかった。
 否、被害者の誰もがあんな風になっていい人間ではなかった。
 蒼衣が意図したわけではなくとも雅孝の絶望の引き金を引いたことや、雅孝を手に掛けたことで千恵の身内をまた奪ってしまったと気に病んでいる様子だったが、千恵には蒼衣を恨む気持ちはなかった。
 泡禍のことを知った時も、悪いのは神の悪夢などというものが存在するこの世界の最悪な仕組みだと思ったし、同じように千恵の父が悪夢の源泉となったからには、そう思うしかないと思ったのだ。……表面的には。

 だが本当は、そう思うのは理不尽だと抑えつけようとする皮一枚隔てた下では――
 『愛するものたちが死んでいく恐怖』という雅孝の悪夢が志弦を狂わせ死に追いやったのではないか、と千恵は感じていた。

 だから感情的には今も昔も千恵は雅孝を恨んでいる。
 絶望しただか何だか知らないが、あんなのはあまりにも理不尽で身勝手な行いだった。
 勝手に愛して、勝手に殺して、勝手に死んで――

 ――身勝手だよ、にいさんは……

 千恵が雅孝を素直に悼むには様々なものがあり過ぎた。
 そのやりきれなさをぶつけるべき相手はもう存在しない。

「…………」

 千恵は神のことも宗教のこともろくに知らない。
 人が死ねば肉体から魂は離れ、あの世に行く――そんな風に多くの日本人にありがちな、ぼんやりとした死生観しか持ち合わせていない。
 雅孝は霊魂も死後も信じていないから、死後の世界は存在しないといっていた。

 それゆえに例え死を迎えたとしても志弦と逢えないことに絶望したのだとも。

「…………」

 同じように遺された千恵は雅孝の絶望に対して、理解も共感もできない。
 死にたくなるほど絶望していても、それでもなお死ねない絶望など理解不能だ。
 だからこそ、雅孝はひどい。
 そんな雅孝を心配する周囲の全てを拒否し泥を塗るかの如く、ただ想い出と破滅だけを救いとする暴虐に身を委ねたのだから。

「…………」

 きゅっと千恵は唇を噛み手袋の嵌った拳を握りしめた後――手を合わせる。

 ――にいさんが姉ちゃんに逢えないのなら、逢えるように願ってあげる。

 平凡な死生観しか持ち合わせていない千恵はそんな風に想う。
 きっと姉も本当はそんな平凡な救いを求めていたのではないかと思うから。


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