Homecoming
「……はっ……あ…………」
苦しげに入谷は息を吐く。
何も知らない一般人に見られることは避けたいが、無数の針が刺さり内側からズタズタに荒らされ腫れ上がった脚では一歩一歩歩く毎に激痛に苛まれ、そう遠くにも行けそうにもなかった。
過剰投与された〈黄泉戸喫〉の〈効果〉のせいで死んではいないが――今の己が目にするのもおぞましい〈異形〉と化していることはわかった。
ずたずたにされた脚はスーツの布地が破れて中からは傷と血肉の代わりに蠢く『魚』が見えていた。
そして直接目にすることはできない脚以外の体内にも、『何か』が蠢く感触があった。それが足にびっしりと寄生する『魚』と同一であろうことは想像に難くなかった。
体内にある『魚』が動く度に走る激痛と、それが動く度に身体が傷つきその度に『魚』が己の肉を補うように増殖していき、病巣のようにその範囲が広がっていく。
今すぐこの身を抉り出してそれを取り除かねばならない、という逼迫した焦りと衝動が幾重にも沸き起こり気が狂いそうになる。
そして、そんなものでは『人魚の肉』は取り除けない、死ねないという事実。
苦痛の中でも死ねないという絶望――
こんなものを抱えたまま、正気を保てる人間などいない。
皮肉なことに――こうなって初めて神狩屋の、人魚の、八百比丘尼の絶望の一端が理解できた。
入谷に〈断章〉を放ち傷つけた少年の行方が気になるが、どうしてこうなったかの事情は不明だが神狩屋の差し金であるならその目的の邪魔はしないだろう。皮肉なことだが、全てを終わらせることのできる白野蒼衣の身の安全は保証されている。その周囲の人間の安全は保証されなくとも。
「……っ……!」
尖った刃の上を歩くかのように激痛の走る足を引き摺り、苦痛と怖気と溢れ出る狂気に苛まれながら人目のつかない場所に身を隠さんと路地裏を歩いた。
「…………」
辿り着いたそこはかつて入谷が恋人と暮らしていた借家だった。
かつて入谷の〈断章〉の暴発と共に惨劇の舞台と化して破壊され倒壊したが、あの後建物は取り壊されて、新たに家を建てられることはなかったのか、土が剥き出しになった更地に雑草が生い茂りブロック塀の一部だけを残していた。
道路からは死角となる塀の影に、どっと腰を下ろした。途端に糸が切れたように全身から力が抜ける。もう動けそうになかった。
「…………」
白野蒼衣は神狩屋の元に辿り着けただろうか。
きっと引導を渡してくれるだろう。
神狩屋が死ぬまでの間、身を隠せればいい。
神狩屋が死ぬその時が、入谷の終わりでもあった。
入谷の悪夢と惨劇の舞台となった『家』が、入谷の死に場所だった。
『……………………』
女の亡霊が入谷の傍らにいる。
恋人だった。
トラウマで日常生活もままならなかった入谷を数年に渡り献身的に支えてくれたいい女だった。
だがそれゆえに、亡霊に頭をかち割られた見るも無残な姿を晒してこの世に留まっている。
恋人は、入谷の罪の証だった。
『家族』の悪夢の中に囚われたあの時から、悪夢のフラッシュバックと共に祖父母と妹と友人達を巻き込み殺したあの時から〈断章保持者〉であることがわかっていたのに――もう普通の人間の生など望むべきではなかったのに、それが判明してもなお『普通』を望んで『家族』を作ってしまった己の罪であり罰だった。
それらと共に在り続けて――それも、もうすぐ終わる。
それは一言だって入谷を責めることはなかった。ただ何も言わずに傍にいた。
お前と関わったばかりに不幸になった。お前のせいで人生滅茶苦茶だ。己に憑いている亡霊ならば、そう責めて呪ってくれたなら迷わず己を断罪できたのに――
――なあ、鹿狩。お前はこれを神の悪夢でただの現象でしかないと否定した。だけど、俺にとっては、これは――
悪夢であることに変わりはなかった。だが、救いのようなものはあった。
だが神狩屋はどこまでも救われないだろう。この世にもあの世にも救いを見いだせないなら。
――早く、くたばっちまえ。そして、救われろ。
己の『家族』の気配を感じながら『家族』に見守られながら、入谷は目を閉じた。
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